渋沢栄一と社会福祉
救護法実施促進運動のおこり
現在の生活保護法は、日本国憲法 第25条の「生存権」を踏まえ、「健康で文化的な生活水準」の保障、無差別平等、国家責任等を基本原理とし、困窮する人びとの最低限度の生活を保障し、自立を助長する制度として、社会保障制度の根幹を支えています。
日本における困窮者救済の公的な制度は、1874(明治7)年制定の「恤救規則」以来、今日の生活保護法に至るまで数々の制度的変遷を経てきました。そのなかで、公的な救済義務を一般的な制度として初めて明確にしたのは、1929(昭和4)年に制定された「救護法」でした。
「救護法」制定、とくに同法の実施にあたっては、全国各地の方面委員(現・民生委員)をはじめとする社会事業関係者・組織は数年にわたり奮迅しました。この救護法実施促進運動は、渋沢栄一が中央社会事業協会 会長として最後に尽力した取り組みでもあります。
「救護法」の成立
「恤救規則」等の限界
第1次世界大戦(1914年から1918年)後の不況、関東大震災(1923年)に続き、1927(昭和2)年の金融恐慌等により、同時期に数多くの人びとが生活困窮に陥りました。
制定されてから半世紀あまり続いてきた「恤救規則」の適用人数は、1908(明治41)年に発出された国庫負担の抑制を図る通牒により急減、1926(昭和元)年までの19年間は毎年、全国で1万人を下回ります。「軍事救護法」以外の各分野の救済制度による措置もまた、消極的、限定的なものでした。一方で当時、全国各地の方面委員が把握していた要救護者は少なくとも10万人を超えるといわれていました。
失業など貧困問題が複雑化するなか、「恤救規則」等による救済では限界があったことから、根本的に新たな制度が求められました。
恤救規則(じゅっきゅうきそく)
日本で初めて制定された全国統一の生活困窮者の公的救済制度。地域社会や家族による助け合いを優先とし、その対象は、働くことができず、血縁・地縁の共同体による扶助が不可能な者等に厳しく限定、給付内容も限られていた。「恤救」はあわれみ救うの意。
1874(明治7)年制定、1932(昭和7)年の「救護法」実施に伴い廃止。
新たな公的救済制度「救護法」の成立
1922(大正11)年に内務省の外局として設置された社会局では、翌年に起きた関東大震災の影響を多大に受けつつも、新たな救済制度の調査・立案作業が進められました。救済制度や社会事業に関する政府からの諮問を受け、1927(昭和2)年6月に社会局「社会事業調査会」より、公的救助等を内容とする答申が行われました。
これと前後して、第1回「全国方面委員会議」(1927年10月)に続き、第1回「全国救護事業会議」(1928年12月)においても論議が行われ、救護法制定・実施促進運動等が決議されました。
決議を受け、中央社会事業協会(現 全社協)は渋沢栄一会長名で、適切な救護法施行の要望を総理大臣、内務大臣、大蔵大臣等に建議しました。
このような各方面からの強い要望も背景に、1929(昭和4)年3月、1927年の答申を基礎とした「救護法」案が国会に提出されました。
ここでも中央社会事業協会は「全国救護事業会議」決議に基づいて、法案を通過させるよう貴族院、衆議院の各議員に働きかけ、さらに各府県社会事業協会による地方選出議員への働きかけを依頼しました。
そして「救護法」は同月に、「昭和5年度より実施すべし」との附帯決議とともに成立、翌4月に公布されました。
成立した救護法は、当時の福祉観や、緊縮財政の傾向にあったことを背景に、労働能力のある失業者は対象外とする等、現在からすれば必ずしも十分な内容ではありませんでした。それでも、従来の「恤救規則」以上に対象が拡大され、公的扶助の一般化・明確化といった点では当時としては画期的なものであり、社会事業関係者たちの期待は大きなものでした。
救護法実施促進運動
難航する救護法実施と関係者による実施促進活動
昭和5年度の救護法実施に向けて、中央社会事業協会等の社会事業関係者は円滑に対応できるよう準備を進めていましたが、7月の政権交代により救護法実施の見通しが立たない状況になると、人びとの窮状の実態を知る方面委員をはじめ全国の社会事業関係者は、強く危惧し、一体になって強力な「救護法実施促進運動」を展開しました。
第2回「全国方面委員会議」(1929年11月)を発端とする運動は、衆議院解散後の総選挙(1930年2月)で本格化しました。運動では、中央関係だけでも、各大臣や与野党等への陳情を何十回も重ねたほか、数々の新聞社から理解を得て世論を喚起し、各大臣の折々の動きを把握しては地元の方面委員が直談判を図る等の展開を見せました。
それでも救護法実施の見通しが立たない事態は変わらず、長期間にわたる全国的な運動は行き詰まり、万策尽きたとして上奏(天皇への請願)を表明するに至ります。
その後も陳情活動を重ねつつも、1931(昭和6)年2月14日、方面委員関係者たちは、運動の実施主体として陳情活動等に取り組んできた「救護法実施期成同盟会」を解散、法令上の手続きに則り、1,116名が連署した上奏文を政府に提出しました。
この一連の動きもまた、各紙で取り上げられ、国会論戦においてもたびたび言及されるところとなりました。
なお当時の報道によれば、同盟会解散の後、同日中に内務大臣と大蔵大臣の間で救護法実施の合意が図られたとされます。
運動と渋沢栄一~救護法実施2か月前に永眠
この間、中央社会事業協会による各方面への働きかけは渋沢栄一会長名によるものが多く、渋沢栄一本人も非常に高齢ななか、運動の様子について中央社会事業協会の職員から報告を受けていました。
また、大蔵大臣への面会がなかなか叶わず運動が行き詰まり、方面委員代表者をはじめとする20名余が1930年11月、助力を求めに私邸に来た時には、熱があるなか面会に応じ、「法実施には自分も責任を負う」との覚悟を伝えたとされています。そして同日に寒空のもと内務大臣への陳情、さらには大蔵大臣との面会に出向きます。この出来事は、社会事業関係者や政府関係者に強く記憶され、法実施運動において精神的に多大な支えとなりました。
1931年3月に救護法実施に必要な予算が成立した後、同年11月、渋沢栄一は永眠します(享年91歳)。2か月後の1932年1月、救護法は実施されました。
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