渋沢栄一と社会福祉
社会福祉との関わりの始まり
1万円札の肖像になった2024年からさかのぼることちょうど150年前の1874(明治7)年11月、当時34歳であった渋沢栄一は「会議所」の「共有金」管理を任されたことに伴い、「会議所」下の養育院の運営に関わりはじめました。多様な福祉施設・団体で設立・運営、また事業存続に寄与した渋沢栄一のあゆみはここから始まります。
会議所
(1875年に「東京会議所」に改称。1876年に解散、東京府へ事業移管。)
飢饉、災害や貧民対策用の莫大な積立金「七分積金」を管理していた江戸の町民組織「町会所」の後継組織として「共有金」を管理。「共有金」を原資に、貧民救済、交通機関の発展により必要となった道路や橋梁の修繕・拡張をはじめ、ガス灯設置、商法講習所(現:一橋大学)経営、東京共同墓地管理等の公益事業を担った。
養育院
養育院事業は、ロシアのアレクセイ皇子の訪日を前にしたことをも受け、1872(明治5)年に幕府瓦解・江戸経済崩壊により急増した窮民を収容保護したことに始まり、渋沢栄一没後も時代の要請や現場のニーズに応じてさまざまな事業を展開。
養育院の福祉事業は現在の東京都 福祉保健局に受け継がれる。養育院の流れを唯一引き継ぐ組織として地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センターがある。
社会福祉施設の持続可能な経営、多様な事業展開
1876(明治9)年5月には養育院の事務長に就任、その後50年以上もの間、終身にわたり院長を務めました。当時の新聞によると、「養育院のことはよろしく頼む」と最期まで気にかけていたと伝えられている、としています。
養育院は、幼児から老人までのさまざまな課題を有する人びとを保護する救貧施設であり、社会福祉事業の先駆けとされています。渋沢栄一は在任の間、多様な社会課題に対応すべく、分院・専門施設の開設など多彩な福祉、医療事業を展開させました。
一方で、東京府営時代の1985(明治18)年に、「救貧施設は惰民をつくる」といった理由から東京府が廃止を決定すると、渋沢栄一は寄付を募り、またバザーを開催する等して民間資金での運営継続に奔走しました。こうした動きは、当時の多くの篤志家・宗教者による社会事業経営とともに、今日の民間社会福祉施設、社会福祉法人の自立経営の源流であるともいえます。
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