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ふれあいネットワーク 社会福祉法人 全国社会福祉協議会

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渋沢栄一と社会福祉

埼玉県 民生委員・児童委員制度

大正の中・末期における日本は、第一次世界大戦(1914年から1918年)、産業革命をはじめとする社会状況の変化による経済の乱高下や物価高騰、関東大震災(1923年)等により、失業者や貧困者が続出し社会不安が増大する一方、社会変革への期待が高まる時期でありました。

そうした社会状況を背景に、現在の民生委員・児童委員制度につながる制度が、岡山県「済世顧問」制度(1917年)や大阪府「方面委員」制度(1918年)をはじめ、各地で相次ぎ誕生しました。

埼玉県でも1919(大正8)年に「福利委員」制度が創設されました。創設にあたっては渋沢栄一による多大な助言・指導があったとされます。

そして、1931(昭和6)年には全国組織が創設され、渋沢栄一が初代会長に就任しました。

埼玉共済会「福利委員」制度

1918年夏の米騒動を受けて当時の埼玉県知事は、救済事業機関の設立を構想しました。渋沢栄一から設立への賛同を得ると、さまざまな関係者と協議を行い、制度の詳細を詰めました。そして、県内外の有力者からの寄付募集に奔走する等して、翌1919年4月に埼玉共済会が設立されました。設立趣意書については、渋沢栄一に諮りながら何度も推敲を重ねたと言われています。

渋沢栄一は顧問に就任しました。同会の事業内容には、渋沢栄一の当時の社会に対する考え方が反映されたと考えられるものもあります。

埼玉共済会は同年6月に「福利委員制度」設置を第一項目に掲げた事業計画を決議、同10月に25町村で「福利委員」73名に委嘱し、制度が開始されました。

福利委員の職務として、住民や市場、救済機関など地域の実情を把握し、生活困窮の個別事情への対応、高齢者や幼児等の保護、行政調査への協力等を図ることが定められていました。

また、埼玉共済会は、福利委員が必要と認める場合は、被救護者に対して現金や現物の支給を行うこととしていました。

「福利委員」制度は、1931(昭和6)年12月に埼玉県に移管され「方面委員」制度に改称、戦後の民生委員・児童委員制度に至ります。

埼玉共済会は現在、「社会福祉法人 埼玉県共済会」として、施設や訪問・通所事業、地域包括支援センター等、高齢者福祉の拠点として事業を継続しています。

制度の全国展開、組織化

全国への普及、相互連絡

大正時代から昭和時代にかけて現在の民生委員制度につながる制度が、先に設けられた同様の制度等を参考にしつつも、多様な設置主体、見解・方針、名称をもって各地で相次ぎ誕生しました。なかでも1922(大正11)年に内務省社会局が示した「方面委員」の普及奨励方針を受けて各県での普及活動が活発化しました。

そして、1917(大正6)年に岡山県「済世顧問」制度が創設されてから、わずか11年で全国へ普及し、社会事業の中枢的な機関に発展することとなります。

全国に普及した1928(昭和3)年の時点で、委員数は1万5,155人、1年間の取扱件数は35万5,750件にのぼります。

各地で制度が設けられると、地方で相互に連絡を取り合う動きが生まれ、1927(昭和2)年10月には第1回「全国方面委員会議」が開催されました。

企画・主催は中央社会事業協会であり、先立つ1925(大正14)年の第7回全国社会事業大会において会議開催を委任されたものでした。

同会議では、方面委員制度の法制化や全国における方面委員の連絡機関設置を求めること等が決議されました。

第1回全国方面委員会議で演説する渋沢栄一
数百人の参加者を前に演説する渋沢栄一の後ろ姿

中央社会事業協会

現 全社協。1924(大正13)年に「社会事業協会」から改称。なお、社会事業協会は1921(大正10)年、中央慈善協会から改称。

方面委員

「方面」は「地域」を意味し、1918(大正7)年、東京と大阪で「方面委員」の名称がすでに用いられていた。

「方面委員」制度と救護法

第1回「全国方面委員会議」では、現場で救護事業に直接あたっていた方面委員たちによって救貧法の速やかな制定が強く要望され、制定運動が展開されました。

そのなか、1929(昭和4)年に国会で行われた「救護法」案に関する審議では、制度の濫用を懸念する質疑に対し、「地域の実情を詳しく把握している方面委員がいるので救護法は適切に実施される」との答弁が行われ、3月に同法が成立しました。

一方、同年7月の政権交代により緊縮財政の方針がとられ、救護法実施の見通しが立たなくなると、世論を巻き込みながら、救護法実施促進に向けての運動が盛んに行われました。運動では、方面委員を中心とする「救護法実施期成同盟会」を結成する等、方面委員たちは救護法実施の原動力としての役割を果たしました。

全日本方面委員連盟 創立

1931(昭和6)年3月に救護法実施が決定された後、救護法実施促進運動を通じてつながりを強くしていた全国の方面委員を中心に、全国的連絡組織の結成を求める声が強くなりました。

翌4月、救護法実施決定を祝すとともに、全国組織結成に向けた覚書が発表され、「全日本方面委員連盟」(現在の全国民生委員児童委員連合会)が設立されました。

初代会長には、病躯を押して救護法実施のために動いた渋沢栄一が就任しましたが、発会式前の同年11月に逝去し、発会式は翌1932(昭和7)年3月、永眠の地でもある渋沢栄一別邸で執り行われました。

方面委員制度は、1936(昭和11)年に「方面委員令」によって法的に位置づけられた後、1948(昭和23)年の民生委員法に引き継がれ、今日の民生委員児童委員制度へと発展していくこととなります。

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