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ふれあいネットワーク 社会福祉法人 全国社会福祉協議会

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渋沢栄一と社会福祉

関東大震災 発生

1923(大正12)年9月1日正午直前から発生した関東大震災では、建物倒壊や甚大な規模の大火により10万人もの人びとが犠牲となり、首都圏は壊滅的な被害を受けました。避難等により東京からの人口流出も長期間続き、その規模は数十万人に及びました。

当時83歳であった渋沢栄一も日本橋兜町で執務しているときに被災しました。執務していた事務所周辺一帯が全焼し、また孫の一人を亡くすなか、被災者支援、復興支援にのり出しました。

被災者支援に奔走

渋沢栄一は従前から、多くの火災、水害、凶作等の被害に際して多額の寄付を行ったほか、1910、1920年代には災害等によって困難な状況に陥った人びとを救済するために支援団体を設立し、寄付を募る体制を築いてきました。

関東大震災においても被災地慰問、民間による救援活動、国内外からの資金調達、政府の帝都復興審議会への参画等に取り組みました。

  1. 被災者への直接支援

    発災直後は埼玉県から米を取り寄せ、私邸を近隣の滝野川町の食糧配給本部とし、炊き出しを斡旋したほか、300枚の布団を寄付しました。

    また、9月4日には「協調会」副会長として内務大臣からの要請を直接受け、収容所、炊出場、情報案内所、掲示板、臨時病院など協調会による被災者のための施設設置を進めました。

    協調会
    労働者と資本家の協調を図る組織で、渋沢栄一は発起人代表。労資(使)紛争の防止・調停、社会問題の解決・調査・研究等に取り組み、労働者と資本家双方に影響力を持った。1919(大正8)年設立、1946(昭和21)年解散。
    関東大震災においては、協調会の本来の役割に加え、人手があること、拠点となる建物が残っていたということもあり、救済事業への協力を求められた。

  2. 資金調達

    9月11日には、救済事業に必要な資金の調達のため、渋沢栄一は率先して「大震災善後会」を設立、副会長に就任しました。大震災善後会には実業家および貴族院・衆議院議員の有志が参加しました。

    渋沢栄一自身も5万円を寄付したほか、国内外の有力者に積極的に寄付を呼び掛けました。集まった莫大な額の資金は、東京市・横浜市、社会事業団体、罹災兵士・欧米人等に配分され、孤児院や労働者のための託児所の設置など多くの事業に充てられました。

このほか、政府が決定した都市・インフラの復興を主な内容とする計画大綱の妥当性を論議する「帝都復興審議会」への参画や、被災建物の復興建築助成を担う「復興建築助成株式会社」の設立、被災団体の復興資金調達等、将来を見据えた復興に向けた取り組みにも尽力しました。

当時の社会事業関係団体

社会事業協会(現 全社協)

津波により職員1名が犠牲となり、2つの事務所が全焼した社会事業協会は、9月4日に内務省社会局の一室に仮事務所を設け、災害直後の避難者に対する救護活動、そのための調査事業や、全国各地から寄せられる救援物資の分配業務等にあたりました。しかしながら、現存する当時の記録は限られています。

  1. 被災状況などの調査

    救護事務のために震災後直ちに組織した「臨時救護部」は、東京府、千葉県、神奈川県の広域にわたる被災地域の調査と応急策にあたることを目的としました。

    内務省社会局各部の嘱託および社会事業協会の職員から構成した委員は、交通機関や通信手段が壊滅的な被害を受けているなか、各地の社会事業団体を訪問し、避難先や被害の程度、職員および被保護者の死傷の有無や現状などの把握・集約に取り組みました。

    この調査をもとに9月20日、緊急理事会にて会長の渋沢栄一たちは次の5事項を決議しました。

    1. (1) 罹災社会事業団体の調査および慰問並びに援助方法
    2. (2) 社会事業団体の保護能力調査
    3. (3) 罹災善後策として増設並びに新設を要する社会事業の種類および範囲の調査(応急的施設)
    4. (4) 罹災地の社会事業の復興並びに建設方法(恒久的施設)
    5. (5) 『大変災と救護』の編纂(変災時に現れた国民の社会奉仕的精神並びにその事績)
  2. 被災者支援を担う施設・団体に必要な資金の算出・要求

    「臨時救護部」は復興に向けた調査・研究をさらに進め、被災者支援に必要な「応急社会事業施設」として、託児所、婦人宿泊所、簡易宿泊所の3事業を挙げるとともに、被災した社会事業団体の復興に向けた計画案を作成しました。

    応急社会事業施設の建設費用として、政府「臨時震災救護事務局」に520万円を要求し、150万円が支給されました。さらに、社会事業51団体の復興経費予算として133万円余りの補助申請を提出したと記録されています。

  3. 救援物資の分配

    米国赤十字社から日本赤十字社に対し、医薬・医療品をはじめとする莫大な救援物資が寄せられました。これらの救援物資の一部について日本赤十字社より委託を受けた社会事業協会は、臨時救護部において東京府下の社会事業団体から必要物資の希望を集め、物資を分配しました。

    なお、渋沢栄一は、3年後の1926(大正15)年11月に、第2回東洋赤十字総会(東京)に合わせて民間の各界代表者等による「震災救援感謝会」を開催、総代として「北米合衆国を始めとして諸外国より純真の同情を以て多大の金品」が寄せられたことに対して感謝の辞を述べています。

このほか、社会事業協会は、当局による震災救護打合会に関して種々の斡旋を行い、さらに社会事業関係の団体・個人への相談にも応じました。

社会事業団体等の被災状況、支援活動状況

社会事業協会「臨時救護部」の調査によれば、東京府内で公私174団体(内、私設127団体)が「全焼・全壊」し、私設社会事業団体の財産上の被害見積総額は544万円、また、神奈川県で被災した団体は28団体、その損害額は41万円にのぼりました。

一方で、東京府内をはじめ多くの社会事業団体は、被災者の施設収容、炊き出し、義援金、物資の提供などさまざまな臨時事業を実施しました。

また、東京府社会事業協会の記録によると、東京府で数多くの団体が被災した一方で、震災後に個人的な運営を含め154もの団体が新たに組織されたとされます。

社会事業団体等による支援活動の一例
東京府社会事業協会 被災者用臨時宿泊所の設置・管理、米・野菜・衣類・毛布など物資の配給、公益質屋の柔軟な運営、避難先のない住民や朝鮮人学生の収容、職業紹介、寝具供給事業、営業手段を失った自営業者に対する小口資金貸付事業(「震災善後会」を通じた寄附が原資)
東京基督教青年会 被災者事情調査、身の上相談、職業紹介、法律相談、牛乳・慰問品の配給、代筆・尋ね人捜索、慰安(講談、蓄音機、お伽)、児童教育(テント学校、運動遊戯)
福田会育児院 避難者受け入れ、迷子・孤児等の被災者収容、炊き出し、日赤病院への建物貸与(児童収容所)
救世軍 慰問運動(食料、日常物資の寄贈)、バラック巡回、牛乳配布に伴う家庭訪問、冬の救療事業、保育園、独身労働者の寄宿舎、結核療養所・婦人ホームへの収容
浅草寺 被災者収容、尋ね人受付、はがき代書、慰問金・被服募集、週一の慰安会、無料診療、被災児童を対象とした小学校、託児所
東京市「方面委員」 人命救助、避難支援、被災者収容、物資配給、居宅の周旋調停、職業紹介、要救助者の調査、橋梁道路の修理

さらに、多くの被災者が全国各地へ避難しましたが、被災者がたどり着いた先では、負傷者の救助、宿所提供、食糧等物資支援、相談支援、就職のあっせん等が行われ、各地の社会事業団体等もまた大きな役割を果たしました。

関東大震災から100年

当時の渋沢栄一の動きや被災者の状況、社会事業団体等の取り組みを見ると、現在においても通ずるところや、学ぶべきことが多く、今後の災害福祉支援に活かし、さらに発展させていく必要があります。

  1. 助け合い・支え合い活動の推進

    関東大震災においては、発災後の救命・救助、高齢者や障害者、児童等に対するさまざまな支援が地域住民等により行われたという記録がとりまとめられています(『大正震災美績』東京府 1924年)。

    また、社会事業団体や方面委員のほか、地域住民や学生有志、地域の各種機関・団体といった今日のボランティア団体やNPOのような多様な主体が被災者支援に取り組みました。

    さらに、被災者支援や復興に莫大な額の公費が支出されましたが、これとは別に、資産家のみならず一般市民からも寄せられた4,000万円超にも及ぶ寄付も大きな役割を果たしたとされます。

    今日においても、大規模災害が起きたときには公助による支援が重要となりますが、同時に日ごろから、地域住民等による助け合い・支え合い活動や各種組織・団体との連携・協働を進め、災害に備えることも必要です。その際、社協には連携・協働の中核となるコーディネーターの役割が求められます。

    また、公費に加えて、募金や寄付金が被災者の生活再建や支援者による活動資金として重要な役割を果たしています。

  2. 被災者支援

    関東大震災では、食料や物資の配給、衛生状況等について臨時宿泊所間の格差が大きかったことが明らかになっています。また、自宅の焼け跡に建てられた仮設小屋には支援が十分に届かない状況もありました。さらに、震災後半年が経っても身寄りのない高齢者や困窮者などが臨時宿泊所に数多く取り残されていました。

    広域避難に関しては、東京市から全国に流出した人口は、ピーク時には90万人を超えたと推定する研究もあります。

    こうした状況はいまなお解消されたとは言えず、避難所における生活支援や在宅避難者の支援の充実、さらには災害ケースマネジメントの体制構築や創造的復興に向けて取り組む必要があります。

当時の渋沢栄一や社会事業協会などの取り組みは、今日の災害福祉支援のあり方を考えるうえで多く示唆を与えてくれます。社会事業団体も壊滅的な被害を受けながらも、被災団体の数を上回る団体が新設されたという記録からは、どのような苦境に直面しても地域を守り抜こうとする当時の強い意志を感じ取ることができるのではないでしょうか。

今日を生きる私たち社会福祉関係者は、このような歴史を学びながら未来の災害福祉支援を切り開いていく責任があります。

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