渋沢栄一と社会福祉
中央慈善協会 創立(全社協の誕生)
全国社会福祉協議会の前身である「中央慈善協会」は1908(明治41)年に、慈善事業の全国的連絡組織として発足しました。当時は、政府による救貧・救護政策は乏しかった一方、篤志家や宗教家による慈善事業が盛んになっていました。
その中央慈善協会 初代会長に渋沢栄一が就任しました。
全国の社会福祉関係者のネットワーク化
発会式 開会の辞
中央慈善協会の発会式に臨んだ渋沢栄一は「開会の辞」において、慈善事業を担う者たちがその専門性を深め、尽力することが重要であることは言うまでもないとしつつ、協会設立にあたり重要なこととして「設立趣意書」に敷衍しながら以下の3点を挙げました。
開会の辞 要旨抜粋
社会福祉の啓発、国民の理解促進
当事者や世間の人びとが「慈善」を理解、同情(共感)してこそ、慈善事業、ひいては社会は発展する。
社会福祉のネットワーク化、持続可能な事業実施
文明が進み、富が増すほど、貧富の格差が甚だしくなることは、「養育院」の実態からして明らか。当事者や社会のためになるようにするためには、恵みを思い付きにより一方的に施すのではなく、慈善事業を「組織的」、「経済的」に行う必要がある。
自発的な福祉活動と関係法律・制度による両輪
個人的な感情から発される慈善を「組織的」なものとして、より効果的に取り組むには、政治課題として位置づけ、政治と「相俟つ」(互いに作用しあう)ことも必要。
発会式の参会者
内務省による第一回感化救済事業講習会に合わせて発会式を執り行い、
全国各地から、官民各方面の有力者、慈善事業家が一堂に会した。
中央慈善協会設立の時代背景、経緯
明治維新からおよそ四半世紀が経過した1890年代、近代化政策が進められるなか、政府による救貧・救護政策は、血縁、地縁に頼るべき人がいない一部の窮民のみを対象とした「恤救規則」(1874年/明治7年)に限られていました。
日清戦争(1894年から1895年)前後の産業革命による軽工業の発展に伴い、都市において賃金労働者や下層民が増加し、「日本之下層社会」(横山源之助、1899年)に表されたように、都市貧困層の実情が知られるようになりました。
また、日清戦争では20万人超が動員され、戦死者および戦傷病者も万人単位で生じました。それにより戦争留守家族、傷痍軍人や軍人遺族の生活困窮等が新たな社会問題となりました。
こうしたなか、「慈善事業」、「救済事業」と呼ばれた当時の社会福祉事業にあっては、孤児や棄児の保護、また、困難な状況から非行・犯行に走るものの成人と同様に処遇される風潮が強かった少年の更生(感化事業)等を民間の篤志家や宗教家が中心となって行っていました。この救済活動は次第にその範囲を広げ、救貧・防貧、感化事業などについて研究し、一層の発展をめざそうという機運が高まり、全国的な連絡組織設立の必要性が指摘されるようになりました。
そうした流れのなかで、東京では救済行政・警察行政関係者等を中心とし「養育院」等の実務家たちが加わった「貧民研究会」(1900年)、大阪では慈善事業経営者等による「大阪慈善団体懇話会」(1901年)が誕生しました。
1902(明治35)年に「大阪慈善団体懇話会」関係者が「貧民研究会」会合に出席したことを機に、翌1903年、大阪で開催された「全国慈善大会」のなかで全国的連絡組織「日本慈善同盟会」創立が決定されました。
この「全国慈善大会」が日本における社会福祉関係の全国大会のはじまりです。
全国大会の主唱者たち
「日本慈善同盟会」(後に「中央慈善協会」に改称)設立に向けた準備は、「庚子会」(1903年、「貧民研究会」から改称)に委託されました。
協会設立に向けた動きは、1904年の日露戦争勃発により一時中断となりましたが、戦後の救済事業が拡大するなかで再度活発化、創立を渋沢栄一たちに諮りつつ、広く慈善事業に理解のある官民の有力者に発起人になるよう呼びかけました。1908(明治41)年、「中央慈善協会」発足に至り、渋沢栄一が初代会長に就任しました。
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